Story
(小説)
はちみつのにおい 第七話
∮ アイスクリーム ∮
『旅に出る。帰るかもしれないけど、しばらく帰らない。
(もしかしたら、もう帰らない?)by 慎一』
薄っぺらなメモ用紙に、マグネットで冷蔵庫にはりつけてあった。
「なによ、これ?」
そういって私はしんちゃんの部屋のドアをバタンと開けた。
部屋は綺麗に片付けてあった。もともと荷物は少ない人だったが、まとめられたダンボールの上にも張り紙があって『捨てても捨てなくてもいい』と、変なゴリラの絵に吹きだし付きで書いてあった。
「・・・なによ、これっ?」
私は思いっきり眉間にしわを寄せて言った。
その表情をみて少し驚いた様子で私の顔を見つめた和麻は、タタタっと玄関までいき傘を手に持った。
「私、慎一さんはそんなに遠くに行ってないと思うわ。さっきドアの音がしたような気がして目が覚めたの。」
そういって和麻は私に背を向けた。
「あ、ちょっと・・・。」
私は呼び止めたかったが、それはもう玄関ドアが閉まった後だった。
私は軽いため息をついた。
ドアが閉まる音と同時にそれを追いかけるように、私の周りの空気はシンと静まり返った。この取り残された空気が私はいつも嫌いだった。
私はキッチンのまな板の上にあった和麻の剥きかけのりんごをひとつ摘んで口に入れた。シャリシャリという音だけが私の頭に大きく響いた。
薄暗く、あまり音のない、めずらしい朝だと思った。
水滴が窓を濡らしている。
私は音が足りないと思い、ラジオをつけ、明かりが足りないと思い、レースカーテンを開けた。
今日から東京も梅雨入りしたらしい。対岸の小さな車をみながら、ラジオに耳を傾けた。下を見ると、赤いいちごの傘がみえ、トラックの陰に隠れて消えた。
ダイニングテーブルの椅子を引き、私はそこに腰掛けた。
部屋の風景はいつの間にか、私だけのものではなくなっていた。朝のこの時間には大抵冷蔵庫の横には和麻がいて、向かいの椅子にはしんちゃんがコーヒーをのみながら座っているのだ。
いつからしんちゃんはこんなことを考えていたのだろう。
私は、ぼんやりと思った。
しんちゃんはいつも唐突で、予告なしに私をびっくりさせる。
だから、そのしんちゃんの「びっくり」には私は多少慣れていた。
よく考えてみれば、和麻がこの家に来たときもそうなのだ。
しんちゃんはいつも突然私を混乱させる。
私はいつもその度に少し動揺し、少し怒るのだ。
そして、いつの間にか忘れてしまう。
私のお気に入りのCONVERSEのスニーカーが玄関に無造作に転がっていた。いくら捨てることが嫌いといってもさすがにもう諦めた方がいいかもしれない。ぼろぼろになって、かかとの辺りがほつれている。私は玄関にいきその靴を手に取った。
そうそう、そういえばこのスニーカーはしんちゃんから一度捨てられたのだ。あの時は確かどこかに遊びに行くときで、私は靴箱の中を覗き込みながら、そのスニーカーを探していた。
いつものように雨が降っていて、しんちゃんはドアの外で傘をもって待っていた。
「しんちゃん、靴がないんだよ。」
「え、どの靴?」
「え、っと。あのいつも履いているスニーカー・・・。」
「ああ。」
「うん。」
「あれ、捨てたよ。」
「・・・え?」
「だって、汚れてたからさ。」
そのあと私たちは大喧嘩をした。
いろんなところに話が飛び交い、最後は確か、しんちゃんが雨の日ばかりにくるから悪いんだ、と私が泣いたところでその喧嘩は終った。
「ミサさん。慎一さん、一体どこへいったの?」
和麻は少し息を切らして戻ってきて、玄関に立っている私を見て、心配そうに私の顔を覗きこんだ。
「・・・大丈夫? ミサさん。」
いつもの大きな綺麗な目で私を不安そうにみた。
「ミサさん?」
私は笑った。
「大丈夫よ。和麻、あなたこそ何してきたのよ。」
「えっ? えと・・・、私あんまり心当たりとか、よく考えたら無くて。走ってみたけど、見つからないし。」
そう言いながら和麻はコンビニのビニール袋を揺らした。
「それで、その手に持っているものは?」
「アイスクリーム。」
「なんで?」
「いや、ミサさんと食べようと思って。」
そういって、和麻はちょっと笑った。
そういえば昨日の夜、和麻とたくさん話したあの時間に、私はアイスクリームが好きだ、とか言ったかもしれない。
私は素直に和麻をみて、「ありがとう」と言った。
そして部屋に入るように促し、和麻は安心した様子で靴を脱いだ。
私は、CONVERSEのスニーカーを靴箱にしまった。
「ストロベリー。」
「うん。」
食卓につき、アイスクリームを袋から出そうとして私は笑った。和麻にそれを手渡し、私はバニラを取った。
「和麻、なぜアイスクリームが好きか、教えてあげようか?」
「うん。なぜ?」
アイスクリームの蓋を開けながら和麻は頷いた。
「アイスクリームにはね、元気になるおまじないがあるの。それもストロベリーアイス。これをね、一言も話さずに最後まで食べてしまうと、いいことが決まってあるの。これおまじない。」
「そうなの?」
「うん、昔私が決めた。」
「ミサさん、なにそれっ。」
私は幼いころから身近なところでよく迷信を作って、些細なおまじないをした。だからランドセルを背負って学校から帰るその道のりはいつも大忙しだった。
例えば、横断歩道を息を止めて歩きながら、青で渡りきるといいことがあるとか、
道路の白線の上をケンケンでずっと帰るといいとか、
赤い車を十台以上見付けるといいとか。
他にもたくさんあるけれど、一番利いたのがそのアイスクリームだったから、私はそれを今も信じている。
和麻は笑いながらアイスを覗き込んだ。
「ストロベリー。私、食べていいの?」
「いいの。」
そういうと和麻も嬉しそうに微笑んで
「ミサさん、ありがとう。」
と言った。
「でも私も同じ。いちご好きだもん。」
「あ・・・そうよね。」
「うん。あの傘のおかげで雨の日がとても楽しいわ。」
私はアイスクリームを口に含んだ。甘くさわやかなバニラの香りが口に広がった。
うん、やっぱりアイスクリームはいい、と思った。
「ミサさん。」
「うん。」
「ミサさんもあのいちごの傘、使っていいからね。」
私たちは顔を見合わせて笑った。
「いつもなの。」
「ん?」
「いつもなの。しんちゃん。」
「どういうこと?ミサさん。」
アイスクリームを食べ終え、お茶を飲みながら私は言った。
「しんちゃんはいつもビックリ箱みたいだから。」
そういって今までのしんちゃんの話を和麻にした。
もとからしんちゃんは少し放浪癖もあったのでそのことも話した。あのスニーカーのことも話した。
いつも唐突だということ。
いつもちょっとだけ喧嘩すること。
でもそのあと決まって、私は怒れないこと。
「その、大喧嘩したあとね、しんちゃんたら外のゴミ袋にそのスニーカーあさりに行って。そのあと一所懸命、洗ってくれてたの。」
しんちゃんが靴を捨てた理由は、本当はもう一つ別のところにあった。その靴を洗った日の夜に私に手渡された箱には私の誕生日プレゼント用の別のスニーカーが入っていた。
それは私が前からほしがっていた同じCONVERSEの限定ものだった。
「この靴を一番にしたかったんだ。」
そういっていたことを覚えている。その新しくもらった靴は結局いまも履けず靴箱にしまっている。
話終った私をみて和麻は、
「ミサさん、なんだか嬉しそう。」
と言った。私も頷いた。
「だから、きっと今回もなにか理由があると思うの。」
「きっと、戻ってくるのね。」
そういって私たちは、机の上のメモ用紙をみた。しんちゃんの空っぽの部屋の窓から風が吹き込んできた。いつの間にか雨は止んでいた。
「うん、でも・・・。」
「でも?」
「・・・行き先がかいてないのよ。」
いつも行き先は必ず告げていく。そのしんちゃんが今回はなにも言わずに行った。
私はそれだけがちょっとひっかかった。
「はちみつのにおい」第七話 ~アイスクリーム~
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