Story
(小説)
はちみつのにおい 第六話
∮ 千江さん ∮
しんちゃんは今日の夜は帰ってこなかった。
私たちは二人で簡単に夕食をすませ、テレビを見た。
その後は、特に何かを話すわけでもなかったが私たちは時計の秒針音に耳を傾け、お互いのなんともない時間を流れるように過ごした。そして、さっきのテレビドラマに出ていた俳優の話題をちょっとして、私たちは寝ることにした。
私の部屋のソファーベッドは丸みをおびた形をしていて、和麻をクルンと包んでいる。和麻は子犬のように包まって寝ていて、私はそっと毛布をかけた。
和麻の長いまつげが頬に影を落としている。
電気を消して、私は自分のベッドに入った。しばらくすると目が暗闇に慣れたせいで、うっすらと部屋の中が見えてくる。
カーテンの隙間からわずかに入り込む月明かりが、天井をぼんやりととても静かに照らしていた。
私が東京に来る前にちょくちょく遊びに行っていた父の実家は大通りに面していて、田舎なのに夜でも比較的うるさく車が通った。
「あの家、慣れないうちはうるさくて眠れないでしょう?」
と母はよく言っていた。
確かに、と思いながらも私はいつもそれほど気にせずに眠ることができたので、「ああこの家は私に合っているのだな」と勝手に解釈した。
うるさすぎない騒音が私には心地よかったのだろうと今は思う。
私が父の実家によく通うようになったのは、千江さんがいたからかもしれない。
祖父が死んでから空き家同然になっただだっ広い父の実家は、昔から来ていたお手伝いの千江さんが、祖父が死んでからもなお、続けてその家に通ってくれていたおかげで、いつ行っても祖父の家は綺麗に保たれていた。
私がたまに訪ねていくと千江さんは決まって夕食の準備をしてくれた。
夕食のパターンはいつも決まっていて、ご飯に味噌汁、あとおかずが一品に漬物。一見質素に見える夕食だが、とてもバランスが取れていた。しかも美味しい。
私はいつも「千江さんも一緒にどうですか?」というのだけれど、いつも準備が終わると千江さんはそそくさと家に帰ってしまう。
幼い頃から私は父の実家に行くたびに千江さんを見てきた。
口数が少なく、常に人の影で気配を感じさせない千江さんをちょっと不気味に思ったこともあったが、長年みている風景のようにその場所にいけば決まっている千江さんは、私にはとても安心できる人の一人となっていた。
私は夕食を食べ、そしてお風呂に入る。
足を伸ばしても反対側に届かないほどの一般家庭にしてはちょっと大きなお風呂だった。これが祖父の家に来たときのひとつの楽しみでもあった。
壁は何処にでもある白と水色のタイルが肩の高さぐらいまで市松模様に貼ってあった。それが風呂桶まで回っている。
昔から、「大きなお風呂」と言い聞かされて入っていたので、その先入観からだろうか。
いつも扉を開けるときは子供の頃と同じ、そこには別世界の大きな空間が広がっているという期待感で私はちょっとワクワクするのだ。
だけど、大きくなった私はその扉をあけるといつもガッカリする。
そして、あたり一面が見渡せるお風呂で体を洗って、ゆっくり湯船に浸かった後、暖まった体で二階の座敷にあがる。
そこには、綺麗にシーツのかかった布団が敷いてあり(もちろん千江さんが用意してくれている)、私はいつもそこで寝るのだ。
仰向けに寝て天井をみると、外の車の流れる音と同時に、四角い光が天井を左右に行き来する。それをみていると、いつもと違う特別な場所に来た気になって私はそれが結構好きだった。
「夜の車の音って、誰も居ない海辺に寝転がって聞く波の音に似てない?」
と、千江さんにいうと、少しの間の後に千江さんは表情を変えずに頷いた。
和麻はもう寝ただろうか? そう思って私は、
「和麻?」
と小さく呟いてみた。
返事がない。
もう寝ているのかな?と思って目を開けたそのとき、和麻が私のそばに来ていることが分かって驚いた。
「わっ、わあ!」
「あ、ああ、ごめんなさい。」
和麻は、慌てて一歩下がった。
「でも今、ミサさん、私を呼んだでしょう?」
そうだけど、と呟きながら身を起こして私は言った。
「あなたはね、ただでさえ綺麗なんだから。わかる? 日本の美少女が夜、無言で動くと別のものを想像しちゃって怖いのよ! もう。」
しばらくの沈黙の後、和麻は声を出して笑いだした。
「あはっ、あはは。ごめんね、ミサさん。」
和麻は本当に可笑しいらしくしばらく笑っていた。
「もうっ、なによ。」
と、私がいうと、和麻は
「ミサさん、一緒に寝ていい?」
そういって幼い子供のように和麻は私の布団にもぐりこんだ。
私も可笑しくなって、和麻を抱えながら一緒に笑った。
その日の夜は、時間がゆっくり流れているようだった。
私たちは初めていろんな話をした。
母親が死んで、去年、目黒の親戚の家に来たの、と和麻はいった。
そしてある日の街角で、パステルカラーで描かれたやしの木の絵を見つけて、それが気になって、毎日そこを通るようになった、という。
そして、しんちゃんと出会ったのだろう。
「東京はホントに退屈しない街ね。」
と和麻は言った。
「東京は好き?」
と私が聞くと、和麻はしばらく黙っていた。そしてうなずいた。
「たくさん人がいるから、面白い。」
「うん。」
「でも、ミサさん。 あまりに沢山の人の中にいるとね、時々、私、自分がとても独りに感じて。そういう時、キューってね、自分が小さくなる気がするの。」
そういって和麻は身を縮めて見せた。
「だけど、ここは好き。」
「うん。」
「ミサさんと、慎一さんがいる。」
私は微笑んだ。
和麻は私の服の袖先を軽く握った。和麻は震えているようだった。
少し開いている窓から、わずかに風が吹き込んでカーテンを揺らしていた。
柔らかく天井の光が歪む。和麻が感じているかすかな不安を私もそのとき一緒に感じていた。
「寒い?」
と私は聞いた。和麻は首を軽く縦にふった。
私が窓を閉めようと立ち上がろうとしたとき、和麻も身を起こして私をみた。ドキンと鼓動がした。 和麻はゆっくりと、そして、消えるような声で、
「私ね、慎一さんのこと、好き。」
と言った。私は頷いた。
「だけど、ミサさんのことも好き。」
そういって和麻は一度うつむいた。
そしてこう言った。
「だからね、私、今、ここにいてもいいと思うの。」
カーテンを揺らし、夜風が吹き込んでくる。
和麻の髪が少し揺れている。
私は、よくわからなかった。
だけど、なんとなくそれが一番いいということは感じていた。
和麻がそのひとつひとつの言葉をまるで大事だというように、慎重に話すその様子が、彼女の瞳を通して伝わってくる。
今は三人の誰が欠けてもいけないと思った。
この綺麗なトライアングルを崩したら、もっともっと悲しい想いをするような気がする。
月明かりに照らされた静かな部屋に鼓動だけが響いた。ここまでは外の車の音は届かない。
私は泣きそうな瞳の和麻の頭を撫でた。
「いっそのこと、しんちゃんを半分こにしよっか?」
そういって私は笑った。
とてもとても不思議な夜だった。
周囲はベールで覆われたようにぼやけていた。
和麻が私の袖をかすかに掴んでいる気配だけが残っている。はかない感覚がこの子の淋しさを伝えていた。和麻は無意識のうちに誰かを求めているのだろう。この子は今まで、きっと一人でいろんなことを耐えてきたに違いない。私に確信があるわけではない。だけど、自分の鼓動を聞きながらぼんやりとそう思った。
和麻の大事な人がこれ以上、消えなければいい。
そして、私たちはいつの間にか眠った。
「・・・遠くにいてもいいの。
・・・・そばにいてくれればいいの。」
?・・・遠くなる意識の中で、そういった和麻の声が胸に響いた。
次の朝、肩をゆすられて私は目が覚めた。
「・・・っ、ミサさん!」
和麻が私に何かを伝えようとしていた。
だけど、慌てているのかなかなか言葉にならないらしい。 瞬きをたくさんしている。台所からは和麻が朝ごはんの用意をしていたのだろう。コーヒーの香りが漂ってくる。
「どうしたの?」
私はまだ半分寝ぼけて尋ねた。
「慎一さんが・・・」
「ん? しんちゃんがどうかした?」
和麻は、大きく息を吸い込んで言った。
「慎一さんが、出て行っちゃった・・・。」
「はちみつのにおい」第六話 ~千江さん
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