Story
(小説)
はちみつのにおい 第十話
∮ 父の部屋 ∮
私は空っぽの部屋の中にいた。
ただ呆然とその中で日が暮れるまでの時間を過ごそうと思った。
案外広いなと思ったり、天井の模様にはじめて気付いたり、今まで見ていても気にしなかったものたちをゆっくりと眺めた。
やはり私は実家に戻ると、想像していたようにその部屋の扉を開けた。
何度でも頭に描くことができたその部屋の風景は、扉を開けた瞬間にもう架空のものであることを知った。
心の底からこみ上げるものは無く、ただ、時は流れ、使われていない空間と空気だけが父に置き去りにされたことを悲しんでいるようだった。
その日は梅雨らしく雨がシトシトと降っていた。
とりあえず私たちは、実家に一度寄ることにした。
きっとしんちゃんも訪ねてきているだろう、と思ったから。
案の定、唐突に帰ったにも関わらず、私と和麻を出迎えた母は、私たちが来るのをわかっていたかのように、穏やかだった。
母は相変わらずのんびりとした調子でしゃべり、私をほっとさせた。
「おかえり。」
母は私たちに微笑みかけた。
そして和麻をみて、全てを知っているかのようにゆっくりと頷きながら、
「いらっしゃい。どうぞあがって。」
と言った。母の目線を追うように私は和麻の顔をみた。和麻は緊張しているのか顔には笑顔はなかった。ただ母の顔をじっと見つめてぺこりと会釈し、
「お邪魔します。」
と一言いっただけだった。
父の部屋に私がしばらくいること、そして和麻をその間一人にすることを和麻は許してくれた。和麻は私の部屋で休んでいた。
昔、父の部屋で一枚の紙切れを見付けた。
子供の私は、それが何なのかわからなかった。ただなにか不思議な気持ちになったのを、なんとなく覚えている。
この部屋に入るまで、そのことは全く思い出しもしなかったのに・・・。
さっき母からレザーのブックカバーを受け取った。それは、随分と使い込んでいて、父がずっと愛用していたものだった。
母が父のものを片付けると言ったとき、私はこのブックカバーを「とっていて」と母に頼んだ。読書好きの父がいつも持っていたブックカバー。それは私が唯一譲り受けようと思ったものだった。
私は今、父のこの部屋で、そのブックカバーを開いた。
使い古した皮のいい香りがする。私はそのカバーにちょっと顔をうずめた。
父の後姿が脳裏に映った。
そしてブックカバーに包まれた本に栞のように挟まれた、その紙切れに気がついた。
私はそれを再び開いた。
幸せを怖がる君へ
例えば、
他の誰かを求めることが、私の愛する人を傷つけるのならば、
それは罪といえましょう。
私が犯した罪で自分を責める貴方がいるのであれば、
私のほうから消えてなくなりましょう。
貴方のことを想って、犯した罪であるならば、
それは「愛」ともいえましょう。
私は貴方を想っております。
それでも貴方は消える私が怖いという。
いつか愛が無くなるのが怖いという。
私がいることで、貴方を傷つけてしまうから。
だから、いつか私は貴方の元を去るでしょう。
それは、父の筆跡だった。
そこからは、私のみたことのない父を見たような気がした。ふと和麻の瞳を思い出し、シンクロしていくなにかが見えた。
トクントクンと鼓動が鳴り、私はそれを静めようとまた目を閉じた。
日も暮れる頃、和麻は父の部屋のドアをノックした。
「はい?」
「ミサさん、入っていい?」
「・・・いいよ。」
そういうと和麻はゆっくりとドアを開け、私を見つめた。そして部屋を見渡した。
「いい?」
もう一度和麻は聞いた。
どことなく和麻の様子はいつもと違っていた。
私は頷いた。
一歩一歩、慎重に床を踏みしめるように近づく和麻は、どこか不安げで、歩くことに慣れていない子供のようだった。
表情は硬く、少し緊張しているようにみえた。
そして和麻は私の横にペタンと座り、大きく静かに息を吸った。
フローリングの方向にそって指を立て、ゆっくりとなぞり、膝を抱えるようにしてうつむいた。
突然、私の心の奥がサワサワと音を立てた。
・・・?
私は息を吐き、その気配を探るように胸を軽く撫でた。
「ここの空気はあたたかな匂いがする。」
和麻は私に背をむけ、顔を上げた。
膝を強く抱える和麻は、細い手で必死に自分を守っているようだった。
少しの衝動でばらばらになってしまう、とてもとても弱いものを守るように・・・。
わずかに光が残る窓の方に顔をむけ、和麻はしばらく何も言わなかった。
腰の横のビーズの鞄、黒い髪、細い背中・・・
私は和麻の後姿がこの部屋に溶け込んで行く様子を見ていた。緩く消えてしまいそうな光は柔らかく和麻を包んだ。和麻は小さく肩を震わせていた。
「会えてよかった。」
和麻の声はとても弱く、聞き取りづらかった。
和麻は、・・・まるで独り言のように、私に直接は話しかけて来なかった。
和麻は泣いていた。
それに気がついたとき、私は息を呑んだ。
再びドキンドキンと、私の中のざわめきははっきりとし、今、目の前までそれが来ていることが分かった。
でももうすでに私は逃げ出すことはできないことを悟っていたのだろう。
そのときの私は和麻から目を離すことができなかった。
必死だった、と思う。
和麻と最初に出会った時から感じていた、あの胸の締め付けられるような感覚。
赤い傘が私の頭の中をくるくる回った。
紫陽花、
葉の上のしずく、
土のにおい・・・
月明かりに変わった外からは、風が吹き込み、少し雨の香りがした。
コトンコトンと僅かな感覚が交じり合い、私は今、和麻と同じ場所にいる。
独り言のように、だけど私にははっきりと聞こえた。
和麻はぽつりと呟いた。
「・・・おとうさん。」
私の頬にも自然と涙が流れていた。
「はちみつのにおい」第十話 ~父の部屋~
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