Story
(小説)
はちみつのにおい 第九話
∮ レオンの家 ∮
あのときの和麻は私と二人でいるとよくクスクスと笑っていた。
そして、ジンジャエールを片手に電話を時々ぼんやり見ていた。
しんちゃんが出て行ってしばらくの間、和麻と二人で過ごす時間はとても優しい空間だった。
そして、どこかちょっと切なかった。
和麻が笑うたび、私はいつも少しだけ泣きたい気分になった。
はっきりとした理由は分からなかった。心の奥から確かに何かが突き上げてくるのだけれど、いつも最後のほうで見失ってしまう。
人はあまりにも綺麗なものをみると、泣きたい様な衝動に駆られるという。私はこの感情がもしかしたらそれに少し似ているのかなと思った。
私たちは雨が降り出したら、決まってベランダのガラス戸を開け、わざわざ傘をもってきてベランダに出たり、外専用の椅子に座ったりした。私が雨を嫌いではないことも、雨の日にその場所から見る景色が好きなことも、和麻はもうなんとなく知っているようだった。
しんちゃんがいなくなったことで、私たちの中には何かしらの隙間ができているはずだった。だけど、二人でいればその隙間を小さくさせる何かがあったのだと思う。
だから朝起きてその日が雨だと私は少しほっとした。休日の雨の日は外に出る理由もないから、いつもなんとなく二人でいた。
私たちはあれから三週間ほどして、レオンに連絡を取った。
自分たちの中でそろそろかな、というような気配をお互い感じていたのだと思う。心地よい空間の中に彷徨う、ほんの少しの隙間がとても淋しい。それが苛立ちに変わる前に私は手を打たなければと思っていた。
結局、しんちゃんの電話はつながらなかった。
「うん、慎一なら来てたよ。」
レオンはあっさり電話に出て、本当にあっさりそう答えた。
今年の梅雨は雨が少なかった。
サンサンと降注ぐ太陽の光が今満開の紫陽花の花たちには少々辛そうに見えた。私たちは馴染みの駅から三つ先の駅で降り、商店街とは反対側にしばらく歩いた。
道が緩やかに曲がり、その右脇に小さな畑があった。その横の木造のかなり古い家がレオン家だった。
このあたりは昔一面畑だったらしく、その名残が今も残っている。時折、無人の粗末な品台の上に『トマト百円』のようにかかれて、無造作に野菜が置かれていた。鏡だけがその野菜を見張っている。都会らしからぬその風景に和麻は少し驚いているようだった。
レオンは家族と住んでいるらしい。
だけど、今まで何度か遊びに行ってもレオンの家族を私は一度も見たことが無かった。だから玄関の引き戸から現れたその婦人をみてかなり驚いた。
「こんにちは。」
その品のある婦人は私たちに優しく微笑みかけた。
「・・・ミサさんね。」
私はうなずき、和麻は私の影に隠れるようにして顔を覗かせ、会釈した。もうすぐ戻ってくると思うから、とその婦人は言い、レオンの部屋へ導いた。
レオンの部屋に入るのは初めてだった。
その部屋は意外にも片付いていて、本棚には様々な種類の本が並んでいた。一番上の棚には写真がいくつか飾ってある。
畳が新しいのだろう。すがすがしいイグサのよい香りがした。
しばらくして、レオンは慌しく部屋の中に入ってきた。
わりいな、と言って、机の上の麦茶を立ったまま一気に飲み、それから私たちの前にドスンと座った。
「さっきの方、レオンのお母さん?」
私が聞くとレオンは笑った。
「きれいな人だろ?」
「うん。」
和麻はぼんやりと棚の写真を見ながら、私のTシャツのすそを掴んだ。
「ミサさん、あれ・・・。」
私は和麻の目線を追った。
一番片隅の写真には正装姿のレオンと女の人が写っていた。写真の中の女性はにこやかに笑い、レオンは少し緊張した面持ちでこちらを見ている。私はしばらくしてその女性がさっきの婦人だと気が付いた。
「俺が二十歳のときだ。」
「え・・・。」
私が驚いた顔をしていると、レオンは少し恥ずかしそうに
「あいつは、そのときは三十一・・・だったな。」
といって笑った。
レオンは外見が若い分、確かに今の彼女と比べると見た目にはかなり釣合わなかった。レオンだけタイムスリップしてあの写真の中からでてきたようだ。
時々レオンがみせる優しい笑い方があの婦人の笑い方と同じだ、と私は帰り際にやっと気付いた。婦人はまた丁寧に私たちを玄関まで送ってくれた。
母と同年代の彼女と私たちは友達のように楽しく話し、レオンの家を後にした。
「じゃあ、気をつけてね。」
そういって二人で私たちを見送ってくれた。
「きっと、慎一に会えるから。」
そういってレオンはニカっと笑った。
私たちはその言葉に導かれるように、そのまま電車にのった。
遠くの景色が目に流れるように入ってくる時、人は物想いにふけるのだろう。
幼い頃に描いていたより、大人が「子ども」らしい、と思った。
この電車は少しの間だけど、河川敷と平行に走る。
その短い間に覗かせる風景は夕焼けの淡い色に包まれた東京ではめずらしい横長の景色だった。
私は「大人」になったのだろうか。
いつまで子供でいることができるのだろう。
帰りの電車は数分のものだったが、いつもより長く感じた。 私たちは無口だった。
自分はふと気付いたら、大人のふりを始めていて、いつしかそれを忘れて私は大人の中で笑っていた。みんなこんな風にして、その境目を見逃して、後戻りできなくなるのだろうか。
いつ頃からだろう。あの子供の頃の真っ直ぐな感覚に憧れを持った。そう意識しだしたときから、私は大人になってしまったのかもしれない。
大人になるということが、自然と自分を偽れるようになることならば、少し悲しい。
そう考えたとき初めて、幼い頃に聞こえていた心の小さなあの音が聞こえなくなった理由もなんとなく分かる気がした。
私は電車から見える遠い地平線を見つめた。
「大人になるとミサさん、みんな友達になれるのね。」
ホームを歩きながらそう言った和麻の顔は笑っていた。
レオンとあの婦人とを重ねるように思い描き、大人もきっと悪くないのだ、と思った。
あの部屋で、レオンから手渡されたものは一枚の紙切れだった。
そこには住所が書いてあった。それはなぜか私の実家に近い場所だった。
次の日、私と和麻は簡単な荷造りをし、そこへ向かった。
「はちみつのにおい」第九話 ~レオンの家~
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