Story
(小説)
はちみつのにおい 第八話
∮ 九品仏カラス ∮
「東京の夏は暑そうね。」
そう和麻はうつむき加減で言った。その日は本当に晴れていて昨日の梅雨入り宣言がまるで嘘のようだった。
梅雨の合間の晴天は、真夏の空のように青々としていて、無性にのどが渇いた。和麻と坂道を登りながら今時珍しい百円の自販機であまりみかけないメーカーの飲み物を買い、面白がりながら二人で飲んだ。
今日は休日で和麻とはじめて一緒に外に出た。
目的は夕飯の買出し、あとこの辺りの散策。和麻はとてもはしゃいでいた。和麻は、坂道を走りながら上ったりするので、私は息を切らしながら慌てて追いかけないといけなくなる始末だ。
「ちょっと、和麻!」
強い日差しに目をそむけるように私に振り返り、はにかむように笑った。
私はまたドキリとする。
私は和麻と出会ったあの時から、和麻の表情にすでに大人びているものを感じていた。
和麻は、その所々でみせる一見すれば冷たくも映るその表情に、美しさと儚さ、あとまだ少し残る少女のあどけなさが入り混じり、なんとも言いがたい雰囲気を漂わせていた。
カンカンと踏み切りの音がする。
赤いラインの電車がたくさんの人を乗せ、横切っていった。踏み切りを渡るとき、和麻が遠く見つめてぽつんと言った。
「ミサさん、線路ってね。ずっとずっと、遠くまで。限りなく遠くまであると思ってた。先がみえなかったの。小さい頃は。」
そういって線路の先を見ていた。
駅間が短いこの辺りでは、遠くに隣の駅がみえる。真っ直ぐ二本に伸びたそのラインは、その駅を越え、さらにもっともっと先へと続いている。
「今は、背が高くなったでしょう。だから、遠くも見えるようになるのね。」
「うん。」
たった今、気がついたように和麻は話した。
この辺りの風景も、最近のいろいろな出来事も、きっと和麻にとって真新しいことに違いない。
初めてヒールのある靴を履いたとき、
初めてお化粧をしたとき、
初めて男の人とキスをしたとき、
私も同じようにちょっと先が見える気がした。
自分が少しずつ変わっていくと、それによって見失うものもあるのだろう。
そしてまた得るものもあるだろう。
「あんなに駅が近いなんて・・・。」
そう言ってちょっと切ないような顔をした和麻は、さっきよりまた少し大人びてみえた。
二人で線路沿いを歩き、住宅街を抜けたら、いつの間にか少しにぎやかな街並みに来ていた。おしゃれな雑貨屋やブティックが立ち並ぶその街で、私たちはパラソルが店頭にある赤い庇のお店に入った。そこはフランスの雑貨が取り揃えてあり、かわいい柄の布地やボタンが商品と一緒に並べられていた。
色とりどりのそのボタンはキラキラしていて、みずみずしく輝いて見えた。私たちはそれを見てはしゃぎ、何個か購入した。
入り口付近に並べられていたかわいらしいぬいぐるみの中に、一風変わった手のひらサイズの人形がありその中にカエルのぬいぐるみがあった。タグには赤い傘のマークが付いていて、今の時期にぴったりだと思った。それに赤い傘がなんとなく和麻を連想させて私は少し嬉しくなって、こっそりそれも一緒に買った。
そのあと和麻はお腹が空いたと言い、私もそう思ったのでスーパーにむかった。家では簡単な料理で済むように、いくつかの惣菜も買った。
「随分歩いてきてしまったわね・・・。タクシーで帰る?」
と私が言うと、和麻は首を横に振り、まっすぐ前を見て
「歩きたい。」
と言った。私たちは二人で半分ずつビニール袋をもちながら、三十分弱の道のりをまた線路沿いに歩いた。
西の空はほのかに色付き始め、家に向かう坂を下る頃には綺麗な夕焼け色になった。
広い神社の境内からは何匹かのカラスの鳴き声が聞こえ、慌しく飛び去っていった。
「あのカラス、面白い鳴き声。」
その中の一羽のカラスが、か弱い声で「アホ、アホッ」と鳴いていた。本来のカラスの印象からは程遠いとても柔らかな声だった。その声が私たちにはとてもかわいく、コミカルに聞こえたので、私たちは気に入って口々にその鳴き声のまねをした。
境内から道に覗かせるけやきの大木は、坂の下から吹き上げる風でさわさわと音を立てた。そして、そのカラスの鳴き声に寂しさを少し付け足した。
「うん。ミサさん。とても優しい鳴き声ね。」
「そうだね。優しい・・・。」
道端のゴミ捨て場の緑色の網が無造作に広げられたままになっていた。私は思わずそこから目をそらした。
「ミサさん、あのカラスが鳴くとね、他のカラスはきっとびっくりするのね。急に鳴かなくなるわ。なぜかな。・・・あんなに優しいのに。」
私はなんだか切ない気持ちになった。また鳴き声が聞こえる。
いつもはカラスを怖がる私だけれど、あの声のカラスのせいで今日は少し彼らに対して優しい気分になった。そんな私を心の中でおかしく思った。
「*九品仏カラス。」 (*九品仏(くほんぶつ)=地名)
私は言った。
「あは、いいね。九品仏カラス。」
「うん、九品仏カラス。」
「九品仏カラス、カラス。」
あの変わった声で鳴くカラスが彼らのカラス世界で人気者だったらいいなとちょっと思った。
私達ははしゃぎながら、坂道を下った。
夕焼け色の住宅街は、時間という流れを少しだけ緩やかにした。坂を下るときに遠くに見えていた対岸が坂を下るにつれ徐々に見えなくなる。
その頃、私はしんちゃんのことをふと思い出していた。いつもと変わらない量の食材の重さがビニール袋から伝わってくる。
「しんちゃんか・・・。」
私がそう呟いたとき和麻はふと言った。
「・・・慎一さん。レオンさんのところにいないかな・・・。」
そういえばつい最近、レオンはまた変わった格好で、私の家に遊びに来ていた。
確か袴のようなものに革靴を履いていた。幕末から明治時代で取り残されて生きてしまった日本人、か、未だに日本人はまだちょんまげと着物で歩いていると思っている勘違いの外国人が日本に来るとき間違って着てきてしまった格好、とでも言うのだろうか。
レオンは今度舞台に初挑戦するとか言って意気込んでいた。それとこの服装が関係あるかはわからないが、私はレオンの格好を見るたびに、変わっているのとおしゃれは違う気がする、といつも思う。
その日もそんなことを考えながら、レオンの話を聞いていた。
レオンが家に来たときは、まだしんちゃんは帰っていなくて、二人でコーヒーを飲みながらしんちゃんを待っていた。
「ミサちゃん、今日和麻ちゃんは?」
「和麻? 和麻なら今買い物だと思う。」
「そっか。」
レオンは何か考えるようなそぶりで拳をあごに置いた。そして私の顔をじっと見た。
「ふうん。」
「な、なによ。」
レオンはニヤッと笑った。その笑い方が妙にいやらしく見えて私は顔をしかめた。また私をまじまじとみている。
「・・・似てる、か。」
レオンは呟くように言った。
「え、なんて言った?」
「ミサちゃん。うん、実はさ・・・。」
「うん。」
私は身を乗り出した。レオンは私の耳に口を近づけた。
「・・・ミサちゃん。」
「ん・・・?」
「かわいいね。」
と言ったと同時にドア側の壁がガンッとなった。
しんちゃんが仏頂面でこっちを見ていた。
「おい、レオン、ミサをあんまからかうなよ。」
レオンはニカっと笑って立ち上がり、わりいわりいと言いながら、しんちゃんの部屋にそそくさと入っていった。こういうやり取りを見ているとしんちゃんの方が年上に見えるから不思議だ。
きょとんとしている私を見て、しんちゃんが、
「今日は飯、いらないから。」
と言ってばたんとドアを閉めた。
それからはこそこそと話している声がしばらく聞こえ、その後、笑い声とともに相撲でもとっているのかと思うようなドタンバタンという音がし始めたので、どうしたのだと少し不思議に思ったが、その時はあまり気にせずに私は自分の部屋に戻った。
「あれ、片付けていたんだ・・・。」
私はつぶやいた。そういえばあの時の二人はなんだか変だった。
ちょっと考えればすぐわかりそうなのに、しんちゃんが行くところといえば、この近くではレオンのところくらいだ。
レオンは実はああ見えてもとても面倒見が良く、優しく、そんなレオンをしんちゃんは昔から慕っていた。それにしんちゃんは今の仕事をとても気に入っていたし、まさかこの仕事を休んでまで実家に戻ったりしているとは思えなかった。
私たちは家に着くとさっそく夕食の準備をした。そして、ちょっと多すぎる夕食を食卓いっぱいに並べ、二人で食べた。
「ミサさんといると信じられないくらい、とても落ち着くわ。」
「うん。」
本当だ。
和麻も感じているのだろうか。
私が感じているような不思議な感覚を。
この二人の穏やかな時間は、まるで昔から用意されていたようだ。
しんちゃんが突然いなくなるとき、私はいつも心に穴が開いたような気持ちになる。特に行き先と期間がわからない今回のような場合は、きっと私ひとりだったらいつか堪えられなくなるだろう。
「和麻、今まで好きだった男の人とかいたの?」
私はソーセージを食べるのを止めて、ふいに聞いた。今日の惣菜のソーセージはピリリと辛くてビールがとてもおいしかった。
和麻は少し驚いた様子で、柔らかく瞬きをした。そして頷いた。「いたよ」と和麻は言った。
「だけど、私の方から逃げてしまったの。」
和麻はゆっくり微笑んだ。泣いている様にも見える笑い方だった。
「どうして?」
と私は聞いて、もし和麻が嫌でなければと付け足した。
和麻は首を振った。黒い髪が綺麗にゆれる。
その髪を和麻は右手でいじりながら黙り込んだ。そして、私の目を見て、緩やかに息を吐き出すように言った。
「捨てられたら、こっちが死んじゃいそうだったから。
こっちから言ったの。」
こんなときなのに和麻の声は澄んでいて、私は聞き惚れていた。
和麻はその人にとても愛されていたのかもしれないな、とそのとき思った。そして、この子は愛されることより、それが消えることのほうが怖いのだろう。
最初から細い道なら、期待も裏切りも少なくてすむから・・・。
和麻が私たちのそばにいる理由が、なんとなくだけど分かった気がして胸が痛んだ。
この子はいつか消えてしまうだろう。
私はさっきの雑貨屋で買ったカエルのぬいぐるみを和麻にあげた。
カエルはおどけたように笑っていた。
☆
自分の生活の中に当たり前に「ここにいる」という人ほど、いなくなった途端の実感は湧かないものだ。
そして、しばらくしてからだんだんと気づく。自分と深く関わった人ほど、「ここにいない」という事実が克明に胸に迫ってくるのだ。
そういえば父が死んだときはそうだった。
実家に帰れば父は、大抵同じ部屋の同じ椅子に座って新聞を読んでいた。私は父が好きだった。
「お父さんの部屋、片付いたわよ。」
母から最近電話があった。私はなにも言わなかった。
母は一人であの家にいるから、きっと父の姿のないあの部屋をそのままにしておくのはつらかったのだろう、と思ったから。
だから、私が知っている私と父が暮らした空間は、今はもうない。
今も帰れば父があの部屋から、「ミサ、おかえり」と笑って出てくる気がする。東京にいて離れている分、私の記憶はあの時のあの父のままだ。
記憶はそのままがいい。
淋しくなることがあからさまに分かるので、見たくないなどと思ってしまう。だけど、私は次に実家に帰ったとき、きっとあの父の部屋のドアを開けるだろう。そして初めて、父がこの世にいないことを実感するのだ。
しんちゃんのマグカップが飲み物を入れられずに寂しそうにテーブルの上にあった。
しんちゃんは確かにこの部屋にはいない。だけど、今の気持ちは父のものとは、明らかに違う。
いま目の前の和麻と話していても、テレビを見ていてもしんちゃんの気配を感じる。
今この場所にいない、ただそれだけだ、という「確信」のようなものが私にはあった。証拠に心はとても穏やかだった。
わからない事はひとつだけ。
しんちゃんはどうして出て行ってしまったのかということ。
「お腹いっぱい。」
お腹を軽くポンっとたたきながら、やはり余ったその料理を和麻は冷蔵庫に仕舞った。それを片付ける和麻は少し淋しそうにみえた。
そのとき、和麻には私のような確信がないのかもしれないな、と思った。
この子がもしもそうならば私よりずっと寂しいかもしれない。
「和麻。」
和麻は立ちながら牛乳をコクンとのんで振り返った。
「早くしんちゃん、帰ってくればいいね。」
きっと和麻は、いつのまにか自然と私を信じているのだろう。
私も和麻にいつのまにか心を許してしまっているように。
私は和麻の背中をポンポンッとたたいた。
「そうだね。和麻。」
「え?」
私の顔をみて何か察したのか、和麻はほっとした表情をした。
「もう少ししたら、レオンのとこ、行こう。」
和麻は嬉しそうに微笑んだ。
「一緒にしんちゃんを迎えに行こう。」
「はちみつのにおい」第八話~九品仏カラス~
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