Story 

(小説)

はちみつのにおい 第四話

はちみつ挿絵

∮ ビー球 ∮

玄関のドアを開けると、影の長くのびる床の上に二本のラムネのビンを転がして、和麻はそれを眺めていた。

「ただいま。」

 私はスタスタと和麻の側に行き、一緒に寝転んだ。

「ねえ、ミサさん。ラムネのビー玉、やっぱり取りたいと思って。」

「やっぱり?」

「うん。やっぱり。」

「そんな話、したことある気がするわね。」

 そういって私は一緒にそのビンを眺めた。一個のビンは空で、もうひとつはまだ半分残っていた。


「飲みかけ?」

「うん。それ、ビー玉を取りたくて買ってきたの。だけど、飲まないとやっぱり取れないから、飲もうと思ったの。私、一個のビンを飲み終わる前に、ミサさん帰ってくると思ったのに帰ってこなかった。だから、もう一本飲もうとしたの。」

「うん。」

 そう言って、私は飲みかけのラムネのビンをとり、眺めた。

 薄暗くなった部屋の床はセピア色をしていた。その床の上に淡くグリーンの影を映す二本のラムネはとても神秘的に見えた。

「どうやったら、取れるんだろうね。割ったら取れるよね。」

 そういうと和麻はビクっとして、起き上がり私の目を見つめた。
 キラキラ輝くその瞳を見ながら、この子が小さなショックを受けていることが分かった。その繊細な感覚がコトンコトンと鼓動と重なり、私の中に流れてきているように思えた。

 窓の外はまだ明るく、ぼんやりとした中にポツンポツンと星が見え始めている。
 和麻の瞳の輝きと私はそれを重ねながら、なんとなく悪かった気がして

「ごめんね。」

と、言った。

 そうすると和麻はすくっと立ち上がり、そばにある新聞紙を広げた。そして、ラムネのビンを割った。
 カシャンとつめたい音がした。
 そして、コロンとビー玉が床に転がった。

「ひとつじゃ、かわいそうだから。」

 そういって和麻はもう一本のラムネをコクコク飲み干し、そのビンも割った。ころころ転がるビー玉は、うまく同じところに集まり、ぶつかって、また少し転がった。

 割れる音はとても冷たく、だけど転がり集まる様は救われるような不思議な温かさがあった。
 その二つのビー玉は、わずかな夕日をうけて、お互いの輝きを尊重しあっていた。
 それをみて二人で微笑んだ。

「今日はなんかいい日ね。ミサさん。」

「うん、そうかもしれない。」

 そういって、私たちは一緒に寝転がり、しんちゃんの帰りを待った。
 その頃にはもう、予想していたとおり、あのしんちゃんへの心のモヤモヤは消えていた。私は和麻の不思議なその心地よさを心の深いところで感じていた。

 心の中のサワサワという音は、前より少しはっきり聞こえるけれど、私はそれを昔のように怖がる必要はない気がした。

 台所ではコトコトと和麻の作っていたスープの香りがしている。
 壁には和麻の制服がかかっていた。

はちみつ挿絵

 二人で床にごろんと寝転がっている様子を見て、しんちゃんは笑いながら部屋に入ってきた。

「おまえら、動物園で暑さに耐えかねて動けなくなったトドみたいだぞ。」

 私たちは首だけを動かして、しんちゃんに声を揃えて、

「お帰りなさい。」

と言った。

「なんで、ラムネのビンが割れてるんだ?」

少し驚いた様子でしんちゃんが言った。新聞紙の上に細かく散るビンの破片は月明かりを受け、柔らかくキラキラと輝いていた。

「ビー玉をとりたくて。」

私がそう言うと、しんちゃんは、

「いかにもミサがやりそうなことだな。」

と不思議がることもなく、新聞紙を丸めて、不燃物のゴミ箱へ入れた。
 しんちゃんは掃除好きで、そういうところは苦にせずやってくれるから、とても助かる。それを見て和麻が、

「慎一さんって、便利ですね。」

と小声で囁いたので、私はクスクスと笑った。その光景をみて、しんちゃんはちょっと顔をしかめた。
 
 私の存在と和麻の気配がシンクロしていたのだろうか。
 私はそのとき、しんちゃんのちょっと間違った発言が全く気にならなかった。


 それから、私たちはまた三人で食卓を囲んだ。

 和麻の料理はやはりおいしかった。
 今日の夕食はあのよい香りがしていた野菜のスープと、パリっと焼いている硬い皮に少し甘さが香る不思議なチキンのグリルだった。どうやらこのチキンの香ばしい甘さは、焼くときに軽く蜂蜜を塗るらしいのだ。私たちは感心して、そのチキンを頬張っていた。
 すると和麻がふと思い出したようにナイフを置いてこう言った。

「さっき慎一さん、トドって言ってたけど、トドって缶詰があるんですよ。」

 私はチキンをごくんと飲み込み、しんちゃんと顔を見合わせた。

「なんだそれ。かなりまずそうだな。」

「うん、すごくまずかった。ええとね、どっかのお土産。北のほう・・・?」

 そういって和麻は少し首をかしげた。

「北海道かな?・・・知床とか。」

「うーん、わかんない。お母さんのお土産。昔食べた。血生臭さと獣臭さと乳牛肉臭さが混ざったかんじ。」

「へー、あんまり食べたくないが、食べてみる価値はありそうだな。」

 しんちゃんが、面白そうにもごもご言いながらビールを飲んだ。
 私もビールをこくんと飲んだ。
 
 和麻は、いつも持ち歩いているビーズの刺繍のバックをひざの上にのせた。
 そして、一枚の写真を取り出した。
 そこには、コスモス畑が一面に広がり、端の方に美しい女の人が立っていた。
 和麻と同じ綺麗な黒髪の女性は、こちらに優しく微笑みかけている。

 私は自分の鼓動が大きくなっていることに気が付いた。
 和麻の声が少し遠い。

 「私の家には不思議なものがたくさんあったわ。
 母親がね、旅行好きだったの。
 そして買ってくるものといえば、食べ物ばっかり。
 私はそれを必死で食べなくちゃいけないの。
 だけど、お土産ってどれもそんなにおいしくなくて。
 だから、自分で料理するようになったの。」


 「ふうん。」

 カウンターの上では、最近買ったお気に入りのアンティークのラジオからFM局の音楽が聞こえる。DJが爽やかに質問を投げかけてくるのだけれど、それは無意識の中に葬られ、私には全くのBGMになっていた。
 ラジオの音と重なるように、和麻の声が聞こえる。

「お母さんはとても素敵な人だったわ。大好きだった。」

 和麻のフォークを持つ手が止まった。

 「でも一年ちょっと前かな。」

 そういってフォークとナイフを使うのが面倒になったのか、和麻はちょっとだけ迷って、箸に持ちかえチキンを食べた。しんちゃんは最初から手掴みだった。
 私だけ、ナイフとお皿が重なる高い音が響いた。

 「お母さん、死んじゃった。」

 そういって女性の写真をバックにしまった。

 和麻自身の話題が食卓にでてくるのは初めてだった。
 心がサワサワするのを感じた。

 和麻は空になったコップにジンジャエールを注いでいる。
 ドキンドキンと鼓動がするから、私はビールを一気に飲んだ。

 しんちゃんが和麻になにか話しているけれど、私の耳には聞こえていなかった。
 和麻は無表情のまま。
 口は笑っているのだけれど、いつもの瞳だった。
 やっぱり笑わない。

 そして、私は自分の鼓動を聞きながら、ふと気付いたのだ。

・・・私は和麻を知りたくない。

 この不思議な心地よさが消えるとか、そんな確信はどこにもないのに、私の心の奥の小さな不安がうごめいている。
 しんちゃんは私の表情に気が付いて

「ミサ、どうした?」

と聞いた。
 口の中に妙なしょっぱさがある。

 私は泣いていたのだ。

 

「はちみつのにおい」第四話 ~ビー玉~

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