Story
(小説)
はちみつのにおい 第三話
∮ 小指の爪 ∮
二年前に父親が死んで、母が痩せた。
時々帰ると、痩せた母を見て少し寂しくなるのだが、母は痩せたことに関してはものすごくポジティブで、今からまた他の恋愛をするつもりでいるらしかった。
痩せたことを喜んでいる母を見て、まあいいかと思った。この人もまた恋愛をする資格はあるのだ。
二十歳で結婚した母の当時の写真が私にとてもよく似ていて、あらためて私はこの人から産まれてきたのだと思った。
今はその写真の面影を少し残しながら、痩せたことによって刻まれた深い皴は、年老いていく母をあからさまに見せ付けて、私はコラーゲンたっぷりの肉料理をその日は食べるように勧めた。
母はよくあの縁側で新聞紙を広げ、爪を切っていた。
子供の頃は私も母の横に座って、大きな紫陽花を眺めながら、よく爪を切ってもらっていた。母親の足の小指の爪はとても小さくて、そのとき子供の私から見れば、なんて汚い指なんだと思っていた。
今日の朝、私は新聞紙を広げ、二週間ぶりぐらいに足の爪を切った。
ちょっと巻き爪気味の左足の親指がちょっと痛む。パチンパチンと音を立て、爪が新聞紙に散らばっていった。
二十六歳になった今の私の小指は、母親とよく似ていた。
父親の葬式では母親は喪主なのに酔っ払っていて、挨拶の席でこけた。
糖尿病の母親は食事制限をしていていつもはお酒を飲まなかった。だけどその日はここぞとばかりに飲んだのだ。仕方がないので私が変わりに挨拶を済ませ、やりきれない気持ちのまま火葬場に向かった。
田舎の火葬場は高原にあり空気が澄んでいた。
綺麗に整備されていて北向きの窓から見える日本庭園がとても素敵だった。そこで私は母と、わざわざ駆けつけてくれたしんちゃんとピースをして写真を撮った。
しんちゃんを初めて母に紹介したとき、母は喜び、涙を流した。予想外の喜びように私の方が驚いて、しんちゃんと顔を見合わせたのを今も覚えている。
しんちゃんの前で母は仏壇に手を合わせて
「おばあちゃん、ミサにいい人ができたんよ。結婚や結婚。」
などと言っていたので私は慌てて止めた。
母はけらけら笑っていた。
父の葬式の次ぎの日、しんちゃんが東京に帰って、私は一人になる母を元気付けようと新築の温泉旅館に連れて行った。新しく作られた露天風呂から木々の甘く爽やかな匂いがして、ああ、これは正解だったと密かに思った。
だけど、そこで母が一番興味を示したのは、自動販売機の横にポツンとおいてあるその地域限定のプリクラだった。
「ねえ、ミサちゃん。お母さん、あれ撮ってみたいわあ。」
「え? うん、いいよ。」
そうして、母と初めてプリクラを撮った。
母は写真嫌いだった。
だから、私が生まれてこの方、母と写真をきちんと撮ったことがない。私の家にある写真はほとんど私だけで写っていた。母と唯一映っているのは、ブランコに無理やり乗せられ、泣いている私を支える母の腕だけ写ったものと、小学校の入学式の集合写真だけだった。
母はそれなりに綺麗な人だと思っていたから、どうして写真に写らないのか不思議だった。一度、洗濯物をたたんでいる母に、どうして写真が嫌いなのかと聞いたら、
「魂が抜かれるのよ。」
とゆっくり私の顔を見上げ、ぼんやりと呟いた。
目を丸くしている私をみて、くすっと笑ったのでそれがすぐ嘘だと分かったが、結局理由は曖昧なまま、分からなかった。ただ母は、
「古くなるのよねえ。」
と言って、その後に一言、
「何かあったら困るでしょう?」
と笑って言っただけだった。
私は昔から、不安や喜びを予知する力が人より少し強かったように思う。だって、母親が涙を見せるそのときは、いつも私も悲しくなって一歩先に泣いていたから。
今は昔のようには感じなくなったけれど、時々少しだけ心がサワサワするのだ。
私は7年前に東京に出てきた。
そして数年前にしんちゃんと出会って、私はしんちゃんと恋に落ちたと思う。そのあとしんちゃんは今、和麻が好きになって、私はなぜかそれを許している。
私は、歩きながら和麻に感じた気配が一体何なのかとぼんやり考えていた。きっと子供の頃の私なら簡単に分かってしまうのかもしれない。
大人になった今の私は、いろんなことに慎重で臆病になっていた。自分の感情すら、時々分からなくなるくらいだ。実際、和麻がきた今も、私の心の中はとても穏やかに流れていた。和麻にはなにかそういう特別な力があるのかもしれないなと、ふと思ったけれど。
二十六歳になった私は、大事なものを失うことの怖さも少し知っていた。
だからこそ今、自分のそばにいて、自分を必要としてくれる、そんな共に時間を過ごした人を大切にしたいと思うのだ。
私は、大人になってからずっと傍にいてくれたしんちゃんを失くさない方法があるのなら、それを選びたいと思った。
それは今も同じ。
そういうところの価値観はきっとしんちゃんも同じなのだろう。私がしんちゃんを大事なぐらい、しんちゃんも私のことが大事なのだと思う。
田舎に一人の母を一度は東京に呼ぼうと思ったが、母自身も今は一人暮らしを満喫しているようだったし、それにしんちゃんとの生活も私個人の生活も掻き回すくらいパワフルな母親だから、もう少し後でもいいかと思った。
☆
今日は、仕事の打合せが早く終わったので、ペンキ姿のしんちゃんをしばらく見ていないなあと思い、私はしんちゃんの仕事場へ向かった。
しんちゃんは今日、中野のあるお店の壁に鯨の絵を描いていた。
私はしんちゃんの仕事場に今日来てよかったと思った。行って失敗するときもある。この間は、男の裸体になぜが顔だけが八十歳過ぎの老婦人の絵を描いていて、見ていて気持ちが悪くなったのだ。
しんちゃんは私に気付いてニッコリ笑った。そして、そこに座っていてと目で合図をした。
とても楽しそうな鯨だったので、嬉しくなって早く仕上がらないかと思った。
「あれー! ミサちゃん、おっひさっしぶりー。」
スキップしながら私のところにかけてくるレオンが見えた。来たっと思い、私は目を伏せた。
レオンは私の付けたあだ名で、名前は養二朗さんという。
彼は年齢が四十歳なのに見た目は二十代に見えて、はじめて会う人はみんなとても驚く。そしていつも服装がかなり個性的だった。
ちょっと変わっているけど、人懐っこい性格で、私は結構彼のことを気に入っている。噂によればいろんな職を転々としている養二朗さんが、今度はアクタースクールに通いだしたらしい。養二朗さんの場合は、今までそっちの方向を目指したことがなかったのが不思議なくらいだ。
いつ見ても格好がいろいろ変わるので私はカメレオンを想像して「レオン」と呼び出した。そんなこととは知らず、彼はどうやらその呼び名がとても格好よく思ったらしい。自らそれを名乗り、いつの間にかみんなの間でも「レオン」が定着したようだった。そして、彼の芸名も「レオン」になったと聞いたとき、私は吹き出してしまった。
「あれあれ、ミサちゃんどうしたの? レオンさあ、今度いいお店みつけたからさあー。」
毎回同じその軽いテンションで、私としんちゃんをよくご飯に連れ出す。
レオンは美味しいものを本当によく知っていて、私達はいつも感心するのだ。この前のイタリアンも最高だった。身振り手振りで話すレオンは、とても楽しそうだ。
「ええと、和麻ちゃんだっけ?」
「・・・え?」
「うん、和麻ちゃんもさあ・・・。」
レオンの話しを遮って私は聞いた。
「和麻を知っているの?」
「え、ああ、知ってるよ。ちょっと前、ずっと来ていたもん。そういえばこの頃来ないけど。寂しいから来いって伝えといてよ。みんなでまた飯食いにいこうぜ。」
「ふう、ん。」
私は少し語尾が下がり気味のあいまいな相槌を打った。
「しかし、いいよな慎一も。あんなかわいい妹がいて。」
「・・・はあ。」
「なんだよ。さっきからミサちゃん、つれないよね。何かあった?」
私はぶんぶん首を振って、
「いや、何もないの。」
と言った。
目の前の鯨をみながら、私は大きなため息をついた。
しんちゃんの横顔は本当に真剣で、そんなしんちゃんはやっぱり好きだった。
あの人がやっていることは全てを信用できると思っているけれど、やっぱり少し寂しい気がする。
ほのかに香る夏の空気のせいで風はとても爽やかだった。けれど私としんちゃんの位置がわからなくなりそうで、苦しくならないことを願ってそっと胸を撫でた。
もう向こうのほうでレオンは他の女の子と話している。
ああ、こういう曖昧な気分のときは和麻といればまた落ち着くに違いない。
そう思って、鯨が出来上がる前に私は家に帰った。
「はちみつのにおい」第三話 ~小指の爪~
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