Story
(小説)
はちみつのにおい 第二話
∮ カズマ ∮
和麻(カズマ)はいちご柄の傘だけを右手に持って、私の家に来た。
他の持ち物はどうやら肩から掛けてある白い生地にビーズで刺繍してあるショルダーバックだけだった。
和麻からはどこか雨の香りがした。
それは私の心の奥底をトントンとノックされているような不思議な気持ちにさせた。
ちょっと上がり気味の大きな目がとても透き通っていて、まるで宝石のように輝いていた。
あまりにも綺麗で澄んでいたので、ああ、この子のような目のことをきっと本当の「すずしい眼」と言うのだろうと思った。
今までいろいろと描いてきた不安は、和麻とむかい合った瞬間に消えていた。
和麻は私より歳が十、下だった。
だからしんちゃんとは九つ違いで、どちらにしても結構歳の離れた女の子だった。
和麻は私たちにあまり笑顔を見せないので、私がいるからなのかなと思ったけれど、どうやらそれは違った。しんちゃんと話しているときも夢中でテレビゲームをしているときも、彼女はあまり笑わなかった。そして時々私たちに見せる、唇の右端をわずかにあげて笑うその仕草が、私をドキッとさせた。
眉毛のラインで切り揃えてある前髪と肩まである黒髪はとても綺麗で、その平凡な髪型がこの子にはとても似合っていて格好よく思えた。
きっとこういう子は地味な服装のときほど綺麗に見えるに違いない、と思った。
私の家は部屋が二つ、それにダイニングキッチンがあったので一人で住むには結構広かった。
だけど、三人で住むにはちょっと狭い。
しかし私の心配をよそに、和麻は私たちの空間に自然に溶け込んだ。
まるで自分は折りたたみ傘のようにコンパクトなのよ、と言うかのように、細い腕できゅっと膝をかかえて、いつも何処となく居場所を見付けて座っていた。
だから家の狭さを気にする必要がなかった。
和麻は何日か二人の部屋を行き来して、何処が一番しっくり来るか探していたようだったが、しばらくすると私の部屋のソファーの横を居場所にした。
「和麻ちゃん、そのソファー、ベッドにもなるんよ。使っていいよ。」
そう言ってすすめるとコクンとうなずいて、時々そのソファーで眠っているようだった。
夜帰ってこない日は、決まってしんちゃんは私に電話をくれるのだけれど、和麻はかけてこなかった。
一緒に住んでいるけれどあの子がどこで何をしているのか、学校にはいっているのか、そんなことも気にならないほど、私には和麻の存在が自然だった。
「ミサさん、今日は何を食べたい?」
「なんでもいいよ。」
鼻歌を歌いながら和麻はよく料理をしていた。
『しんちゃんパスタ』を食べる回数が減ったので、私は内心ちょっとホッとしたりもして、よく三人で食卓を囲んだ。
和麻はとても料理が上手だった。私と味の好みもとても合っていた。
「ミサさん、今日は何をしていたんですか?」
きょとんとした顔で、だけど真っ直ぐ瞳を見て話す子だった。
「え、うーんと、今日は仕事終わった後に泳いできた。」
「ミサさん泳げるの?」
「うん。」
「ミサは泳ぐのうまいぜ。」
「私も泳ぐのは好き。今度一緒に連れて行ってください。」
「いいよ。一緒に行こう。 ・・しんちゃんもいく?」
「えっと、うん。そうだな。行こうかな。」
しんちゃんの珍しく前向きな返事に私は驚いた。
「あれ、行くの?」
今までのしんちゃんは、私が誘ってもなかなか一緒に行った試しがない。私がちょっと不満そうな顔をしているのをわかっているのかいないのか、和麻はしんちゃんに言った。
「慎一さんも一緒にいきましょう。」
和麻からそう言われて、しんちゃんは嬉しそうにニヤニヤッと笑ったので、私はしんちゃんの脚を蹴った。
外は爽やかな風が吹き、木々の新しい葉が揺れる。
下校の子供たちの声が聞こえる五月の昼下がり。
午後の市民プールは、半分が子供たちの水泳教室のためにコースロープで仕切られ、その半分は数人の近所のおじいちゃんやお母さんがゆっくりと泳いでいる。
順番に並んでプール際で待つ子供たちは、とても不安げな表情をしている。
きっと大きなプールに入るのは初めてなのだろう。背中には羽のように丸い浮き具を二つ着けている。横で教えている先生は、早速水に入り泣きだした子どもを見ながら、かわいくてたまらないといった表情で、一生懸命教えていた。
ちょっと恥ずかしそうにプールサイドに出てきた和麻は、手足がすらりと長くとても綺麗で、この市民プールではちょっと浮いてみえた。胸なんか私より大きかった。
和麻は、私のことに気づくとほっとしたようにパタパタと駆け寄り、そして恐る恐る水の中に入ってきた。
自分から泳ぎたいと言っていたのに、和麻はあまり泳げないようだった。
私のあとを付いてきては、途中で立ち、何度も顔をぬぐった。しばらくしてしんちゃんが来たら、和麻は、恥ずかしそうに水の中から出てこないので、やっぱりしんちゃんをつれてきたのは間違いだった気がした。
三人で五十メートルを三本ぐらい泳いで、一回休憩し、もう一回泳いだら、和麻があまりにも辛そうなので、今日のところはこれで止めた。
疲れているようだったけど、和麻はなんだか嬉しそうで、私はほっとした。
「楽しかったか?和麻。」
「うん。気持ちよかった。」
「そうか、よかったあ。また来ようよなあ、ミサ。」
「うん、そうね。」
私たちの会話を繋ぐように、しんちゃんが話している。
夕暮れの風にまだ乾いてない髪のせいで少し寒い。道には三人の影が長く落ち、それを追いかけるように私達は歩いた。
「ミサさん、泳ぐの上手。私もミサさんみたいに泳げるようになりたいわ。」
「そうだろ? ミサ、上手いだろ? 上手だってよ、ミサ。」
「うん。」
なんだかしんちゃんが自慢しているようだ。他愛もない会話の中にしんちゃんの必死の気遣いがみえるような気がして、私は思わず笑った。「大丈夫よお、しんちゃん」心の中でそういい、私は一歩下がって先を歩く二人の後姿をみた。
ちょっと遠慮がちの二人の距離が、私にはとても自然にみえる。
しんちゃんは本当にこの子のことが好きなのかもしれない。見守るような笑顔がとても優しい。
夕焼け空に星が混ざりだした頃、私たちは家に着いた。
泳いだ日は本当に熟睡できるので、私はいつも気持ちよくベッドに入る。
その日、和麻はしんちゃんの部屋で寝ているようだった。
次の日、朝起きたら和麻は裸だった。
思わず歯磨きの水をゴクンと飲み込んだ。
洗面台の鏡越しに見えるしんちゃんの部屋には朝日が優しく差し込んでいる。
しんちゃんの部屋からかすかに物音が聞こえた気がして、私は慌てて台所へ戻った。
おもむろに冷蔵庫を空け、手当たり次第に野菜を出し、細かく刻んでいく。
トントントン、トントントントントン・・・
そういうことなのか・・。
動揺して高鳴った鼓動と重なるように、野菜を切る音が意識の遠くで聞こえている。
私は、気付いたら二つのキャベツを全部千切りにしていた。
「おはよう。」
「おはようございます。」
二人が同じ部屋から出てきて、いつもと変わらない様子で、身支度をしている。
朝の挨拶を交わした後、私たちの間で会話はほとんど無かったが、テレビから聞こえるニュースと朝特有の慌しさのおかげでなんとなくその場を過ごした。
しんちゃんは、めずらしく朝食はいらないと言い、和麻はなにも言わず「行ってきます」とだけいって先に家をでた。しんちゃんもその後いつもどおり出て行った。
私はこういう日に限って仕事は休みで、大きく深いため息を付いた。仕方がないので私は、いろんなキャベツ料理をすることにした。
ロールキャベツ、コールスローサラダ、キャベツとベーコンのコンソメスープ・・・
テーブルの上にお皿が増え、次々といい香りがしてくる。溢れるばかりの料理を前にし、私はやっと椅子に座った。テーブルを挟んで向かいの二つの椅子をみて、私は再びため息を付いた。胸が苦しい。
空虚か空腹か、それを満たすように、私はゴクリとスープを飲んだ。
暖かいスープが体に流れ、少しだけ気持ちが落ち着いた気がした。
和麻は・・・。
肩まである黒髪と大きく美しい目、そして赤い傘。そして・・・。
私は和麻に関する情報を頭の中から掻き集めようとした。
でも私の中で和麻の情報は驚くほど少ない。
お腹が満たされたせいか、私はだるくなりテーブルの上にうつぶせた。頭が重い。
まるで絡まったカセットテープを指で巻き戻すように、頭の中はくるくると音をたてている。
目がまわる気分だ・・・。
私はしばらくそこから動かずうつぶしたまま、その頭の中の絡まるテープを解いていた。
ふと気づくと、時計は五時を回っていた。
私はいつの間にかそのまま眠ってしまったようだ。近くの小学校のスピーカーから、時を知らせる音楽が聞こえてくる。
外はすっかり夕方の空気になっていた。
こういう日にかぎって和麻はなかなか帰って来なくて、しんちゃんと二人で食卓に座った。
私はとりあえずキャベツの塩もみをビールのツマミに出した。
「ミサ、和麻は何歳だ?」
しんちゃんは塩もみを箸でつまんだまま、うつむき加減で言った。
「そんなこと知らないの?」
「知らない。」
「ありえない・・・。あの子、十六歳って言ってたけど。」
「そうか。」
「あの子、昨日俺の部屋で寝てたんだ。」
「うん、知ってる。」
「そうか。」
一瞬空気が湿った気がして、それをうち消すように私は慌てて笑った。
「うん。わかっているわ、わかってる。」
自分に言い聞かせるように呟く私をみて、今度はしんちゃんのほうが動揺しているようだった。なにか言いたげに瞳が揺れている。
「しんちゃんがそんなことを気にするとは思わなかった。」
「失礼だな。俺もだな、三人で生活するからにはそれなりのけじめみたいなものが必要なわけで。それはわきまえているつもりなんだ。」
「うん。」
「昨日はなにもできなかったんだ。」
「え?」
「うん。」
「嘘だ。」
「うん。」
「やっぱり・・・。」
「や、違うんだ。」
ちょっとためらうようにしんちゃんは言った。
「和麻が、抱いてくれっていったんだ。だけど俺、できなかった。震えるんだ。とても。だから優しく抱いて眠ったんだ。」
お皿の上のスプーンがカチャンと鳴った。
「そう。」
私は、なにを思ったのだろうか。
でも何かの感情が消えた。
その後、私たちはなんとなくキスをして、一緒に眠った。気付いた頃には和麻は帰ってきていて、私の傍にもぐりこんで寝ていた。
しんちゃんは自分の部屋に戻っていた。
しんちゃんの心の苦しさがちょっとだけ分かった気がした。
次の日の仕事の帰り道、女子高生たちの中にいる和麻を見かけた。
和麻は、制服を着ていた。
膝が少し出るくらいの長さのスカート。裾は、歩くたびに軽やかに揺れている。濃紺のセーラ服姿の和麻には、まだ少女の幼さが残っていた。
その横顔は、凛とし、とても美しい。
いままで浮世離れしていたのだろうか。
和麻の存在がとても特別だったから、私は日常の彼女を全く想像できていなかった。外での時を過ごす目の前の和麻に、私はただ驚いているのだ。
少しの間、私は呆然と立ちすくんでいた。
その時、ふと和麻と目が合った。
「ミサさん。」
和麻は腰より少し上の位置で軽く右手をふり、
「バイバイ。」
と言って私にニッコリと笑った。そして私の前を通り過ぎていった。
私は、思わず声が出なかった。現実に引き戻されたような気分だ。
・・・あの子は、あんなふうに笑うんだ。
そうだ、私は何をしているのだろう。
和麻といると、なにもかもが風のように流れていく。
自分の感情を押し殺しているわけでも多分ない。
しんちゃんに対する嫉妬とかそういうものは、あの子といればそれほどでもなくなる。でもしんちゃんのことは好きだから、あの子の持つ何らかの力と私の中の何かの力が重なり合い、そして打ち消すだけの理由が存在するのだ。
ちりんちりん、と風鈴の音がした。
まだ季節的に早いなと思いながら、上を見上げ、アルミサッシの窓に風鈴をみた。こういう風鈴も悪くないなと思ったが、そこにあるのは今の私の求める風景ではなかった。
湿った風が吹き、また、雨のかおりがした。
赤いいちご柄の傘を見たときに感じたあの気配を私はもう一度そこで味わった。
目を閉じて、私は手探りする気持ちでその空気を吸った。
「はちみつのにおい」第二話 ~カズマ~
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