Story 

(小説)

はちみつのにおい 最終話

はちみつ挿絵

∮ コスモス ∮

 本当にあまりよく覚えていないけれど、きっと私はあの後、普通に泣くことを止め、普通にお風呂に入り、普通に寝たと思う。

 昔の記憶が走馬灯のように駆け巡ったかというとそういうわけでもない。
 ずっと我慢してきたものが誰かからポンッと肩を押してもらったときのように、心が緩んでしまったのだと思う。

 すべてがひとつずつ、やっと私の中で繋がり始めていた。

 


 次の日の朝、父の部屋を開けると、和麻はうっすらと朝日に満ちる四角い部屋の真ん中でぽつんと寝ていた。母は静かに和麻に毛布をかけ、和麻のそばでその横顔をじっと見ていた。
 私が声をかけようとしたら、母は私の方を向いて人差し指を立て、口に当てた。そしてそろりと立ち上がり、私の肩を押して父の部屋を出た。

 台所には母が朝ごはんの準備をしていたのだろう。ご飯の炊けるあたたかく甘い匂いがし、テーブルには綺麗にお皿が三つ並んでいた。
 炊飯器の残り十五分という数字をみて、私は熱いお茶をいれた。そして、その湯飲みを持って縁側に出た。

 

 とても久しぶりに美しい朝日を見た気がした。
キラキラと輝く縁側に腰掛け、私は素足で地面の土を触った。ひんやりとした感触がとても気持ちよく、同時に懐かしい空気の味がした。

 昔と同じ目線で紫陽花を見ることができるくらい、その花の丈は大きくなっていて、今では外の道からでもその紫陽花を覗くことができた。

 私はこの場所に座ったときだけ、少しの間、幼かったあの頃に戻れる気がした。
 小学校のみいちゃんのランドセルはピンク色だったなとか、そういえば私は二十飛びが得意だったなとか、普段は思い出しもしない途切れ途切れの記憶をつなぎ合わせていた。
 今まで気にも留めなかった昔の記憶の中の空白部分を軽くなぞる。

 私の歴史の中の無意識の空間、そこにも確かに人は動き、時間は流れている。
 そこには確かに誰かがいた気がした。
 それはとても儚く小さな鼓動のようなものだったから、今までなんとなく見過ごしてきてしまったのだと思う。

 私は目を閉じる。
 後ろから母の声がした。



「ミサ。」

 私はふり返り、母の顔をみた。

「ただ呼んだだけよ。」
 
 そういって、私の横に座った。
 ちょっと脹れる私を見て母はおかしそうに笑う。
 私と母はしばらく黙って目の前の風景を眺めていた。

 

「ミサとここに座るの、お母さん好きなのよ。」

「うん。そういえばよく座っていたよね。」

「そうねえ。」

と言って母は笑った。

「あなたと同じものを見ながら座ってる。あなたはいつも黙っているの。とても大人しいのよ。」

「うん。」

「ふたりともなにもしゃべらないでしょ。それが面白くてね。きっとこの子は今、私と同じことを考えているのかもしれないなとか、想像するとお母さん、楽しくて。」

 どこから拾い集めてきたのだろう。
 庭にはいつの間にか小さな花壇ができていて、川原などで落ちてそうな結構大きな様々な形の石が半楕円状に並べられていた。
 母はその不恰好な花壇をとても愛しそうに見つめていて、私も母の目線を追うようにその石たちを眺めていた。

「たとえば、ねえ・・・
そう、あのカタツムリはあの石まで行き着くのに何分かかるだろう、とかね。」

「ふうん。」

 私は相槌を打ち、クスッと笑った。

「あの木槿(むくげ)の蕾は、どれが一番早く咲くだろう、とか?」

 今度は母が笑った。
 木槿は一度花を咲かせると長く咲いているように見える。だけど本当は「一日花」で、次々に花を咲かせるからずっと咲いているようにみえるのだ。それも幼い頃、こんな風に母の横に座って聞いた気がする。

 部屋の中からピピピッと炊飯器の音がした。風が少しだけ甘い空気をつれてきて、ほのかに私の心をあたためた。

「お母さん。」 

 紫陽花の葉からしずくがポタンと足の上に落ち、ひんやりとした感覚が私のつま先に短く響いた。

「和麻は、とてもいい子なのよ。」

「うん。」

 母は黙って私の顔を見つめ、ゆっくり私の頬に手をかざした。

「あのね、お母さん、だけどね・・・。」

 私はその後になにを告げたかったのだろう。
 母は私の頬に手をのせたまま、

「あなたたちはとても似ているわ。」

と言った。

 さっきのカタツムリはいつの間にか私の足元まで辿り着いていた。

はちみつ挿絵

 


 十年前の私はきっと和麻と同じ目をしていた。
 多分私が和麻と同じ時代を生き、同じ年代で歩くことができるのならば、私たちは重なり見えなくなるのではないかと、ふと思った。

 かすかに揺れる鼓動、空気の重なりを感じることができたのは、私がかつて、彼女と同じ呼吸をしていたからだろう。
 それに今まで気付くことができなかったのは、和麻と私の間にある決定的なものを私が無意識に葬ってしまっていたからだと思う。ただそれだけだ。

 

 母は私に一枚の写真をみせた。

「和麻のお母さんよ。」

 その写真の風景はコスモス畑だった。
 私はその写真をうけとって、浅く軽いため息をついた。

 私は立上がり、居間にある茶色のタンスの引き出しから厚いアルバムを取り出す。
 ページを一枚一枚めくれば、幼い私の笑い顔がたくさん動いた。想像していたとおりそこには、母の写真はなかった。
 そして、初めて気付く。・・・意識した、と言ったほうがいいのかもしれない。
 そこには、父の写真もなかった。

 

「和麻のお母さんとお母さんね、仲良しだったから。」

 自然とうなずく自分がいた。
 自分の反応に少し戸惑いを覚えながら、そのとき「知っている」と遠い記憶に感じた。
 私は救いを求めるつもりで母の目をみた。

 だけどそのとき私は、母にそれ以上何かを求められないことを知った。それは、私がはじめて見る母だった。
 そこには「母親」という表情は無かった。
 ただ母の唇は少し震え、目にはうっすらと透明な影を見た気がした。


「お母さんね、和麻のお母さんのことも好き。
あなたのお父さんも好き。
ミサのことも好きなの。」

 

 ずっと私の中で、強いと思っていた目の前にいる母は、一人のか弱い女性だった。父が死に彼女は本当に独りになった。
 和麻がこの家に来て、大人になった私の前で・・・、母は、どんなことがあっても永遠に失うことのない「私の母親」という姿を娘の前で振舞い通す、そんなわずかの強さすら今は持ち合わせていなかったのだ。

私は言った。

「大丈夫よ。お母さん。」

 遠く知らない場所でいろんなことが起きていたのだろうと思った。
 過ぎ去った時間はまるで夢のようにぼんやりと、私の中を通り過ぎていた。
 二十六の私の心には、ほんの少しの痛みだけを残して。

 あなたの想い、後悔を無駄にしたくない。
 あなたたちの奇跡は、今も生きている・・・。

 私は強くならなければと思った。
 階段から、和麻が降りてくる音がした。
 母はすっとたちあがり、台所へ戻った。

 「和麻、おはよう。」

 そこにあるのは、いつもどおりの母の笑顔だった。

 

 

 私と和麻は二人、父の実家に来ていた。

 東京に出てくる前に何度か来てそれ以来だというのに、そこの風景は前とほどんど変わっていなかった。唯一ちょっと変わったといえば、千江さんの白髪が増えたことぐらいだろうか。
 鍵の隠し場所も相変わらず変わっていなくて、私たちはすぐその家の中に入ることができた。
 しばらくすると、千江さんがスーパーの袋を抱えて戻ってきた。
 私と和麻を見ると、いつも無表情の千江さんの口と目が明らかに変化し、少しの間の後にわずかに明るく緩んだ気がした。

「お久しぶりです。」

 私がそういうと、和麻も「こんにちは」といった。
 そして、千江さんは私たちの顔をみて何度か頷いた後、いそいそと台所へ行き、いつも通り夕食の準備を始めた。
 千江さんの後姿が私には、いつもより幾分弾んでいるように見えた。

 


 父の実家の隣には昔、大きな料亭があり、それが十年か前につぶれてからは、そこは駐車場となっていた。家の反対側から来ると、祖父の家のモルタル塗りの大きな側壁が見える。
 祖父の家は一階部分が店舗用の造りとなっているため、天井が高く、2階建てにもかかわらず、その辺りの住宅より随分大きく見えた。

 私と和麻は家に入ると、とりあえず二階に上がった。そして、座敷の一番奥の部屋にむかった。
昔のその部屋は、隣の料亭のせいで窓がふさがれ昼間でも電気を点けなければならないほどとても暗い部屋だった。あまりに辛気臭いので、ほとんど物置として使われていたくらいだ。
そういえば、隣が駐車場になってから、その部屋に行ってないなと思いながら、私はその部屋の襖を開けた。
 隣の建物が無くなってもなお、西方向の窓だけのこの部屋は決して明るくはなかった。だけど、以前のものとは随分と様子が違って見えた。
 物置としての実状はそのままだが、案外広く、昔から誰にも使われていないせいか、綺麗な部屋だった。

 

「ここ・・・。」

 和麻は私の後ろで少し立ちすくんだ。

「・・・和麻?」

 そして、和麻は私をすりぬけダンボールのそばに行き、中を覗き込んだ。

「ミサさん。・・・ここ、私、知ってる。」

 和麻は私をふり返った。

 西の窓からは、わずかに短く光が差し込んでくる。もうすっかり、夏の光だ。窓からは前の車道が見え、車が何台か通り過ぎてゆく。ここの部屋から見える風景はどれも新鮮だった。

 私は和麻の目を見て、軽く息を吸った。和麻のそばにいき、一緒にそのダンボールの中をみた。
 そこには私が幼い頃に使っていた僅かなおもちゃがあり、その横に子供用の赤い傘と赤い長靴が綺麗にしまってあった。

 私は自分自身に慎重に、優しく、ひとつひとつを確かめるように言葉を吐いた。

「和麻は、・・・ここにいたのね。」

「うん。」

「私も、いたわ。」

 和麻はそばにいる私の手を握った。私も自ずと握り返していた。
 和麻を、そしてこの私を今のこのかすかなざわめきから守るように。

「・・・私ね。小さい頃、あれをずっと履きたかったの。」

 赤い長靴を見つめて和麻は呟いた。

 

 

 

 結局私たちは、段々と西日が窓から長く差し込むようになるまでその部屋にいた。和麻と私は、お互いの手を離さなかった。
 そこから伝わる鼓動が、お互いに永遠と続くであろう安らぎを与えていた。
 そして、この手を離した瞬間に私たちは、またそれぞれ、歩き始めるのだということをお互いわかっていたのだと思う。
 私たちはひとつとても大きなものを越えたのかもしれない。

 窓の外の風景も、周りの景色も、すべてがとても透明でキラキラしていた。

「やっと、だわ。」

 窓から見える鉄パイプに止まっていた何羽かの鳥たちが軽い金属音とともに飛び立ち、私たちは一緒に窓側に行き、外を覗いた。

「しんちゃん。」

 簡単な足場の上で、しんちゃんは作業にかかろうとしていた。しんちゃんは私たちの方を眩しそうに見上げて、

「わるい、遅れた。」

と、照れるように笑って言った。

 

 

 

 

 一面が、コスモス畑だった。

「ああ。」

 私は息を呑んだ。
 そしてそのあと、大きなため息をついた。

 その風景をみたときに初めて、今までのすべては母だった、とわかった。
 そして、母にとってこのコスモス畑は永遠の幸せの象徴、一番愛した時間なのだということも。

 

 今日の朝、私たちがでかけるときに、母は黙って和麻を抱きしめた。そして何も言わずに家の中へ戻っていった。
 そのときの母の行為は、和麻に対しての愛情を偽らない範囲で表現できる最大限の優しさだったのだろう、と今は思う。

 おそらくしんちゃんは母に頼まれ、協力したのだ。後姿を見ながらぼんやりと思った。

 私と和麻は駐車場のフェンスに寄りかかり、二人で並んでその壁画を見た。
 しんちゃんが描く青空に続くように、今日の空は晴れて遠く透き通っていた。

「きれいね。」

「うん、きれい。」

 まるで蝶のように今にもふわふわと舞いそうなコスモスの花たちに、とても幸福な気持ちになる。

 作業の間、和麻の横顔はしんちゃんを真直ぐに見ていた。
 しんちゃんが作業場を離れ、こちらに向かって歩いてくるとき、和麻は私にゆっくり視線を移した。

「ミサさん、私ね。」

 私は和麻の目を見つめた。
 彼女の中にも私と同じ鼓動が響き、ある結末をむかえようとしていた。透き通る瞳は心の奥まで見える気がした。

「私は、大丈夫だよ。」

 和麻はまっすぐに言った。


「私、ミサさんにただ、会いたかった。」

 
 その声はとても澄んでいた。
 高くこの綺麗な空気にすっと溶けるように私の中に入ってきた。
 私の中で今までの何かがプツリとはじけ、さらさらと解放されていく気がした。

 しんちゃんは私たちのそばに来て、和麻の頭をポンポンと優しく叩いた。

「ありがとう。」

 和麻はしんちゃんにそう言った。私はぼんやりとただ和麻をみていた。

「私、もう少し、ここにいようと思う。」

 和麻は笑顔でそういった。

 その表情に、ごまかしや迷いやあきらめはない・・・。
 私は和麻を見ながら頷いた。

 そして、もう一度三人でその風景を見上げた。

 その壁画は、父の実家に見違えるほどの生気を与えていた。

 


コスモス

 

 次の日の早朝、玄関のチャイムがなり、扉を開けるとしんちゃんがいた。

 私たちは一緒に「おかえり」といった。
 暖かい風がしんちゃんと一緒に流れた気がした。

 

「しんちゃんは幸せだね。そしてずるいと思うわ。」

 私はしんちゃんの顔を見て言った。待ってくれる場所がたくさんある。しんちゃんは不思議そうに私をみて、少し首をかしげた。私は微笑んだ。

 やっぱり私は結局、またしんちゃんを怒れない。

 

 塀から顔を覗かせて、紫陽花が私たちを見送る。
 私は和麻の後姿をみた。
 私たちの少し前を歩き、時々振り返り微笑む和麻をみて、私は幸福な気持ちになる。後ろから守るような気持ちで和麻のあとを追った。守られているという存在、そしていつでも受け入れてくれる存在。
 それが今確実にあると言うことを和麻に教えたかった。

 ああ、私は、笑っている。

 自分の頬に手をあてて再確認した。
 私と和麻が出会った理由はただ一つ。とても「大事なもの」を確認するため。
 裏切らない何か硬いもの、それを今手に入れたのだと思う。
 離れていても私たちはきっと傍にいる。


 これから先、あなたにどんな未来が待っているかわからないけれど。
 あなたはあなたで、幸せでいて。


 私たちは駅のホームに立っていた。
 私の右肩の斜め上にはしんちゃんの肩があった。

 私たちは東京行きの電車に乗った。



「はちみつのにおい」 終わり   K I N A

 

 

 


これは私の初めての小説作品です。(2004年制作)
もう随分の前の作品ですが、2010年に出版社からの依頼でリライトしています。
残念ながら出版には至りませんでしたが、とても大事にしている作品です。

私は「色」が好きです。
絵を描くときも、いろんな色を使うととても楽しくなります。
文章でもその文字から伝えられる「色彩」や「香り」のようなものを大切にしたいと思って書いていきました。

最後まで読んでいただいてありがとうございました。

KINA